疫病からの救い – 詩篇91篇 Psalm 91

主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
Surely he shall deliver thee from the snare of the fowler, and from the noisome pestilence. Psalm 91:3

また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
Nor for the pestilence that walketh in darkness; nor for the destruction that wasteth at noonday. Psalm 91:6

災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない
There shall no evil befall thee, neither shall any plague come nigh thy dwelling. Psalm 91:10

すべての病をいやし

詩篇103:2-3, Psalm 103:2-3

わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
主はあなたのすべての不義をゆるしあなたのすべての病をいやし

Bless the Lord, O my soul, and forget not all his benefits:
Who forgiveth all thine iniquities; who healeth all thy diseases;

  • forgive = to forgive, pardon
  • iniquity = perversity, moral evil
  • heal = cure, repair, make whole, fix
  • disease = a malady, grievous sickness, disease

「そのすべてのめぐみを心にとめよ。」のあとで、そのめぐみがリスティングされる。神が私たちの不義を許してくださることは、クリスチャンであれば誰でも信じられるであろう。そのすぐ後に、「あなたのすべての病をいやし」とある。主によってすべての不義が許されることと、すべての病が癒されることは、どちらも「すべてのめぐみ」に含まれることであって、片方(すべての不義)の「すべて」を文字通り信じ受け入れる場合は、もう片方(すべての病)の「すべて」も同じように文字通り信じて受け入れざるを得ない。

後者の「すべて」に「すべての病」が含まれるわけではない、といったとき、それでは、前者の「すべて」に「すべての不義」が含まれず、許されない不義があるのか、ということになってくる。

詩篇103:6, Psalm 103:6

主はすべてしえたげられる者のために正義と公正とを行われる。

The Lord executeth righteousness and judgment for all that are oppressed.

righteousness = rightness, justice, moral virtue, (figuratively) to prosper (spirit, soul, body)

judgment = judgement in our favour

神は私たちに裁きを下すのでなく、私たちのために正義と公正とを行われる。

病人に手をおけば、いやされる

マルコによる福音書16:17-18, Mark 16:17-18

16:17信じる者には、このようなしるしが伴う。・・・16:18病人に手をおけば、いやされる

16:17 And these signs shall follow them that believe; … 16:18 they shall lay hands on the sick, and they shall recover.

ここでの癒しは、「信じる者」の信仰による。

病、死や破壊をもたらすのは神ではない

John 10:10, ヨハネによる福音書10:10

The thief cometh not, but for to steal, and to kill, and to destroy: I am come that they might have life, and that they might have it more abundantly.

盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである

病気、事故、死、離婚、自然災害、貧困、戦争、いじめなどは、「盗人」(悪魔)が仕掛けることです。神が私たちに試練を与え、信仰向上や人格形成に役立てようとしているわけではありません。神が人類に対して怒って裁きを下しているのでもありません。イエスが来たのは私たちに豊かな生命を与えるためです。

James 1:17, ヤコブの手紙1:17

Every good gift and every perfect gift is from above, and cometh down from the Father of lights, with whom is no variableness, neither shadow of turning.

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。

全て良いものは神から来ます。それが良いものでない場合は、神から来たのではないのです。病、死、貧困、犯罪や戦争を神のせいにするのは間違っています。神は良い神であり、私たち一人ひとりの真の幸福を願っています。

2000年前に地上でイエス・キリストが私たちの罪の代価として鞭うたれ十字架にかかった時点で、神は私たち一人ひとりの未来の祈りまでも叶えてくださったのです。

親であれば、自分の子供に病気や貧困を望むことはまずありません。神は私たちの天の父です。私たちを常に愛してくださり、私たちの至上の幸せを願っておられます。

 

イザヤ書53:4-5とペテロ第一の手紙2:24

イザヤ書53:4-6, Isaiah 53:4-6

53:4まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
53:6われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。

4 Surely he hath borne our griefs, and carried our sorrows: yet we did esteem him stricken, smitten of God, and afflicted.

5 But he was wounded for our transgressions, he was bruised for our iniquities: the chastisement of our peace was upon him; and with his stripes we are healed.

6 All we like sheep have gone astray; we have turned every one to his own way; and the LORD hath laid on him the iniquity of us all.

上はイザヤ書の引用です。イザヤ書は旧約聖書、すなわち、イエス・キリスト降誕の何百年も前(およそ680~740年)に書かれたものです。さて、下は新約聖書のペテロ第一の手紙2:24の引用です。比べてみてください。

ペテロ第一の手紙2:24, 1 Peter 2:24

2:24さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
2:25あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

24 Who his own self bare our sins in his own body on the tree, that we, being dead to sins, should live unto righteousness: by whose stripes ye were healed.

25 For ye were as sheep going astray; but are now returned unto the Shepherd and Bishop of your souls.

両個所とも、引用の前後を読むと、さらにこの2か所のみ言葉の深い関係がわかります。そして、一番大切な個所はここです。

その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ53:5)

英語欽定訳だとこうです。”with his stripes we are healed.”

その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(第一ペテロ2:24)

英語欽定訳だとこうです。”by whose stripes ye were healed.”

イザヤではare(現在形)、第一ペテロではwere(過去形)になっています。両方とも原語(ヘブライ語とギリシャ語)を反映しています。イザヤ書と第一ペテロが書かれた時は数百年間離れていますから、この間にこのare(現在、未来の事実を表す)がwere(過去、すでに完了したことを表す)ににかわる出来事があったことが察せられます。

イエス・キリストが十字架にかかったことで私たちが霊的に救われることはクリスチャンなら誰もが承知のことですが、イエス・キリストが鞭で打たれたことで私たちが肉体的が救われる(=すでに癒しが与えられている)ことはご存知でしょうか。